かたやまにっき

今日はなんの日?

肥沼信次氏の功績

こんにちは、かたやまにっきの片山光晴です。

今回はドイツで多くの人命を救った肥沼信次氏をご紹介していきます。

 

東京で生まれた彼は開業医だった父を仰ぎ、20歳の時に日本医科大学に進学し放射線医療を専攻。

その後留学先のドイツへ渡った際に第二次世界大戦が勃発。

帰国勧告が発令されるなか、肥沼氏はドイツに残って研究を進めることを決意します。

 

そしてドイツが敗戦し、旧ソ連軍の支配下に置かれた後は滞在先のベルリンから田舎町に疎開

 

しかしそこへ現れたソ連軍の司令官に伝染病治療を依頼されます。

当時リーツェンでは発疹チフスが蔓延しており、深刻な医師不足に陥っていました。

 

医師の不足する中、肥沼博士は、エバースバルデから25キロ程南にある町・ヴリーツェンの伝染病医療センター所長として着任しました。

 

医療センターは医師一人、看護婦二人だけという限られた人員で、衛生環境も悪く、薬や医療用品も不足していた。しかし、肥沼博士は昼夜を問わず薬を手に入れる為に奔走し、治療に尽力して人々の命を救ったのです。

 

献身的な治療を続けた博士は、自らも発疹チフスに感染し、37歳の若さで亡くなった。博士は常日頃、周囲の人に「日本の桜はとても美しく、皆に見せてあげたい」と話していたという。

要約すると、肥沼博士は、終戦直後のドイツで、発疹チフスなどの伝染病に苦しむ人々の命を救うために尽力した医師である。博士は、医療センターの限られた環境の中で、昼夜を問わず薬を手に入れて治療にあたり、自らも発疹チフスに感染して亡くなった。博士の献身的な行動は、多くの人々に感動を与えました。